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オスウィーゴ砦の戦い (1756年) : ウィキペディア日本語版
オスウィーゴ砦の戦い (1756年)[1756ねんのおすうぃーごとりでのたたかい]

1756年のオスウィーゴ砦の戦い(1756ねんのオスウィーゴとりでのたたかい、英 Battle of Fort Oswego、仏 Bataille de Fort Oswego)は、フレンチ・インディアン戦争戦闘である。1756年当時、フランスは連勝を続けており、同年の8月に行われたこの戦いでも、ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム率いるフランス軍が、イギリス軍の砦であるオスウィーゴ砦を攻略した。
==イギリス軍の遠征計画==

フレンチ・インディアン戦争の発端となったジュモンヴィル・グレンの戦いを受けて、両国の政府は、北アメリカに正規軍を送り込んだ。ヌーベルフランスと、イギリス領ニューヨーク境界線地域である、オハイオ領土と他の辺境地域をめぐっての、両国の新たな対立によるものだった。現在はニューヨーク州北部となっているこの地域は、その当時はイロコイ族が広く支配していた。イギリスの戦略の一部には、オンタリオ湖の西端にあるフランスのナイアガラ砦を、遠征隊を組んで占領する計画もあった。この遠征隊の進路として、オスウィーゴ川をオンタリオ湖へと上り、河口に指令本部を置くと言うものだった。(現在のニューヨーク州オスウィーゴ市の位置に相当)〔Lucas, pp. 232-235〕 マサチューセッツ湾植民地総督ウィリアム・シャーリーの指揮のもと、オスウィーゴ砦は補強され、また、これに付属するジョージ砦オンタリオ砦とが1755年に建設された。ナイアガラ砦への遠征計画は、兵站の補給が不可能なのと、オスウィーゴ周辺のフランス軍が、1755年から1756年にかけての冬に増強されたため、実現には至らなかった〔Parkman, pp. 334-338〕。
1755年時点での、フランスのオンタリオ湖周辺の作戦は、湖に大規模な軍艦を何隻か停泊させ、西のナイアガラ砦と、南のフロンテナック砦の間を自由に航行させるくらいのものだったが、1756年3月、このフランス艦は、オスウィーゴ砦への支援物資の重要な貯蔵所であるブル砦を攻撃した。攻撃は成功し、オスウィーゴの駐屯部隊への物資が破壊され、1756年のナイアガラ砦への遠征予定を、事実上不可能にした〔Parkman, p. 387〕。1756年の5月、ヌーベルフランス総督のヴォードルイユの命令により、フランス軍とインディアン同盟軍は、ルイ・クーロン・ド・ヴィリエの指揮の下、ヘンダーソン湾(現在のニューヨーク州サケッツ港)から、オスウィーゴの駐屯部隊を追い詰める作戦に出た〔Parkman, p. 407〕。
1756年5月、フランスの部隊を指揮するために、将軍ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルムがモントリオールに到着した。モンカルムとヴォードルイユは、会うとほぼ同時に、互いに、性格でも戦略面でも一致しないことがわかった。ジョージ湖の南岸へのイギリス軍集結に対する手として、モンカルムはまずシャンプラン湖に面したカリヨン砦に行き、砦の防御の具合を確かめた〔Parkman, p. 390〕。一方ヴォードルイユは、フロンテナック砦にフランス兵を集め、オスウィーゴへの奇襲の可能性を示唆した。2人は、奇襲隊からの役立ちそうな報告から、計画を練ることにした〔Lucas, p. 255〕。
1756年3月、マサチューセッツ湾の総督シャーリーは知らせを受け取った。彼の代わりに、総督には4代ルードゥーン伯ジョン・キャンベルを派遣すると言うものだった〔Parkman, p. 396〕。ルードゥーンの副指揮官である将軍、ジェームズ・アバークロンビーは、6月下旬にならないとオールバニに到着しないため、シャーリーは、アバークロンビーが来るまでに、ナイアガラ砦への遠征の指揮を見越して、オスウィーゴ砦への補給線へのてこ入れを行った〔Parkman, p. 397〕。6月にはウィリアム・ジョンソンオノンダガのイロコイ族の根城に出向いて、イロコイ族の部族である、ショーニー族の援助を得るための交渉に成功した。また、レナペデラウェア)の支援も取り付けた。これらの部族の力を、遠征に活用したいとシャーリーは考えていた。シャーリーはまた、2,000人規模の、航行または造船の経験があるバトーマンを雇い入れ〔Parkman, pp. 404-406〕 、7月ジョン・ブラッドストリートの指揮のもとで、彼らはオスウィーゴ砦への再補給を行った。しかし、彼らは、ここから帰る途中でフランスの襲撃隊の攻撃を受け、60人から70人の捕虜を出すことになる〔Parkman, pp. 407-409〕。
7月の終わりにオールバニに着いたルードゥーンは、ただちに、シャーリーが計画していたオスウェーゴからの遠征を中止した〔Nester, p. 17〕。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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